コラム 大沢家と堀江県

 舘山寺温泉(西区舘山寺町)に御陣山と呼ばれる小高い丘がある。そこにホテル九重、浜名湖パルパルがある。その辺りが、かつて堀江城があった場所だ。
 丹波の大沢村(兵庫県篠山市)から藤原基秀(もとひで)が堀江の地に下向して土着した。貞治(じょうじ)年間というから約650年ほど前のことで、以来、この地を支配してきた。
 関ヶ原の戦いで堀江城主の大沢基宿(もといえ)は本多忠勝の軍に組み入れられ、戦功があったという。その結果、遠江敷智(ふち)郡のうちの6か村、石高1500石あまりを与えられた。 
 また、江戸幕府が成立すると高家(こうけ)に列せられた。高家とは幕府の儀典、勅使の接待や朝廷への使節などを任務とする役職である。基宿の生母が木寺宮(きでらのみや)であり、家柄が皇族であったことによるものであろう。かの吉良家も高家に列せられていた。
 大政奉還の際の使者として、大沢基寿(もとひさ)が御所に参内しその大役を務めた。基寿は東征軍に資金を提供するなど恭順の意を表した。そのためであろうか堀江藩が立藩する。その際、石高を埋立て計画地を含んで申請した。一万石以上は華族に列せられることになっていたからだ。 
 明治2年の版籍奉還で基寿は堀江藩知事に任命され、同四年の廃藩置県により掘江県が誕生すると掘江県知事となる。しかし、知行地の再調査を行ったところ虚偽申請と判断され、基寿は士族へ格下げ処分となる。これが万石事件といわれるものだ。この年の11月には浜松県に統合されたので、堀江県の存在はわずか3か月あまりという短い期間であった。    
 基寿は生活に困窮し、堀江藩の御殿や門を売却した。門は現在、湖西市新所の法泉寺山門となっている。


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