コラム 猛将 井伊直政

りょうぼう

2012年06月19日 04:46

 井伊直政は徳川四天王のひとりである。本多忠勝、榊原康政、酒井忠次の三人は三河の松平家時代から仕える直参であるが、直政は家康が浜松城に入城した後に家臣となった。直政の器量を見極めていた養母の次郎法師が、家康にお目見えさせ仕官させたという。井伊家は代々、井伊谷の国人領主である。直政は井伊家第17代当主にあたる。
 平安中期のころ藤原共資(ともすけ)は、遠江守としてこの地に赴いていた。志津城(西区村櫛町)にいたといわれる。井伊谷の神主が井戸端から拾いあげた子がいるというので対面した。その器量に感じ入るものがあり、貰い受け育てた。それが後の井伊共保(ともやす)であり、井伊家始祖となる。共保公誕生の井戸が引佐の龍潭寺近くにある。この伝説により、井伊家の旗印は井桁(いげた)である。
 さて、家康の家臣となった直政は、数々の戦で存分な働きをした。猛将として相手からも恐れられた。率先垂範するタイプであり、常に先陣にあった。そのため刀傷も多かったという。    
 直政は関ヶ原合戦の功により、石田三成の旧領である佐和山(彦根市)城主となる。後の彦根藩に移封となったのは井伊家が勤皇であったので、京に近いところに配したともいわれる。実際、南北朝時代には南朝方の後醍醐天皇の皇子・宗良親王が井伊家に身を寄せていた時期がある。
 江戸幕府の264年間で、井伊家は五人の大老を輩出している。井伊家に対して徳川将軍家の信望がいかに厚いものであったかを物語る。直政は、安政の大獄のかどで暗殺された大老・井伊直弼の先祖にあたる。
 家康が直政をいかに重用したかは、先に述べたように武田の家臣団を直政に預けたことでも分かる。他の家臣から嫉妬、やっかみも受けたであろう。井伊の赤鬼と恐れられた直政は武将として優れていただけではなく、容姿も優れていたようだ。家康の小姓として寵愛もされた。衆道とは男色であり、戦国の世においては武将間で一般的なものであった。
 なお、井伊家の末裔である井伊直愛(なおよし)(第37代当主)は、昭和28年から彦根市長を九期という長きにわたり務めた。殿様市長として慕われていたという。
 遠州の地が生んだ猛将・井伊直政。浜松は彦根とも非常に縁が深い。

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