日本初の民芸美術館

りょうぼう

2013年12月16日 03:48

   第三項 花開く文化
 浜松は産業が発達しているために、浜松人は自嘲気味に文化不毛の地などと表することもある。いやいやどうして、日本で初めての民芸美術館は浜松に開設されたし、俳句の里、伝統芸能、そして音楽などの文化を生み出してきたのだ。

 日本民芸館(現在は公益財団法人組織)は、柳 宗悦(むねよし)が企画し実業家の大原孫三郎らの賛同を得て昭和11年に東京の駒場に建設された。民芸という言葉は宗悦が名付け親でもあり、民衆の用いる日常品の美に着目したもので、美術工芸品とは異なる。民俗学で晴と褻(け)という概念があるが、まさに褻(日常)の要素である。昭和3年、上野公園で御大礼記念国産振興博覧会が開催され、宗悦は民芸運動のメンバーと共に民芸館を出品した。都市に住む中産階級に向けて新しい生活様式を提案するもので、宗悦らによって厳選された家具什器などが展示された。
 民芸運動の普及のためには、これを常設展示することが必要である。高林兵衛は昭和6年に、邸宅内の建物をつかい日本民芸美術館を開設した(東区有玉南町)。日本で初めてのことである。その期間は二年あまりであるが、わが国の民芸運動の草分けとしてその活動は高く評価されてよいであろう。
 この切っ掛けとなったのは、宗悦を浜松に招き座談会を開催したことである。昭和2年一月のことで、会場は尾張町(中区)の中村邸であった。中村 精は慶応大学在学中に民芸に関心を抱くようになった。精の実家は中島町(中区)の平松家であり、兄はざざんざ織で有名な平松 実である。中村は翌日、宗悦を高林家に案内した。
 日本民芸館が東京に開設されたのが、高林家の民芸館開設より5年の後のことである。この民芸運動には、芹沢銈介や棟方志功などの工芸作家も賛同し活動している。しかし、この民芸館は二年あまりで閉鎖された。兵衛と宗悦の間に、民芸に対する考え方に相違があったとされる。
 高林家は、浜松でも有数の名門である。江戸時代には独礼庄屋として、藩主に単独で拝謁することが許されていた家柄だ。兵衛は時計の収集でも有名であり、『時計の話』を刊行している。コレクションされた時計は、国立科学博物館に寄託された。
 また、高林家の邸宅内で現在も伊兵衛織という絹織物が織られている。繭(まゆ)から手紡ぎした玉糸を通常の四倍ほどの太さにして、染めから織り上げまで手作業で仕立てている。皇族にもご愛用されているほどだ。
 ちなみに宗悦は東京帝国大学の哲学科を卒業し、文芸雑誌『白樺』の創刊にも参画している。学習院時代の仲間であった志賀直哉や武者小路実篤らとともに活動した。父は軍人で海軍少将、母親は講道館柔道の創始者として知られる嘉納治五郎の姉である

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