白瀬南極探検隊と村上濁浪

りょうぼう

2013年05月13日 09:24

 明治43年(1910)一二月、白瀬南極探検隊が開南丸で南極を目指し出航した。204㌧という南極と立ち向かうのには小さな木造船で、白瀬中尉を隊長とする27人であった。
 二か月あまりの航海の後、南極のロス海で結氷に遮られ前進不能となった。砕氷機能を備えていないためであった。探検隊はオーストラリアのシドニーに寄港し再開を期することにした。翌年の一月、白瀬探検隊は五人の突進チームを編成し、後に大和雪原と命名する地に日章旗を立てた。ただし、後日、この地点は大陸上でなかったことが判明する。
 問題は資金集めであった。大隈重信を後援会長に頂いていたが、実質的に奔走したのは村上濁浪(だくろう)であった。村上は本名を俊蔵という。明治5年に気賀村小野(北区細江町)の白井家に生まれ、叔父にあたる村上家の養子となった。
 その後、上京して雑誌社を経営していた。白瀬中尉と知己であり、探険の成功を願い本業を省みず四年以上の歳月を捧げて支援した。『成功』『探検世界』という雑誌を発刊しており、村上自身、未知の世界への探検に関心をもっていた。また、探検隊の事務局を自宅に置いていたほどだ。
 当時、南極を目指していたのは白瀬隊、ノルウェーのアムンゼン隊、イギリスのスコット隊であった。白瀬はかつて帝国陸軍軍人であった。その苦闘を「一歩を進むあたわず。進まんか、死せんのみ。使命は死よりも尊し」という言を残している。『八甲田山死の彷徨(ほうこう)』を彷彿させるようだ。
 国会で承認された探検隊の予算は、ついぞ支給されることがなかった。白瀬は探検での借金を背負い込み、執筆や講演活動で借金返済に努めた。日々の生活にも困窮し、不幸な末路をたどったと記録される。白瀬の最大の理解者であった村上も病死してしまう。
 永田 武の率いる南極観測隊が昭和基地を建設し、本格的な観測が始まったのは、白瀬隊の苦闘から半世紀近く経ってからのことである。

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