この地に弓道が継承された

りょうぼう

2013年05月28日 06:54

 武術のうち剣術と共に弓術は欠かせないものだ。有史以来、獲物を仕留めるための道具であり、戦では鉄砲が普及するまでは強力な武器でもあった。
 武道としての弓道が確立するのは、足利末期のことである。日置弾正が始祖とされ、日置(へき)流といわれる。これが近江の吉田家に伝わる。何世代か経て、横須賀(現在の掛川市)藩士の吉田重保が日置流七世を務めた。
 それが見附(磐田市)の上村家、さらに袋井の木野家を経て、天王の竹山一族に継承された。一三世が竹山茂敦(しげとし)、一五世が竹山茂清(しげきよ)、そして一六世の竹山茂郷(しげさと)と伝授されていった。竹山家には矢場があり、この地方の旧家にも弓道場があったとされる。
 東区天王町の大歳(おおとし)神社には弓道場が今も残されており、放射会が行われている。有玉神社(東区有玉南町)の流鏑馬(やぶさめ)は、徳川家康が大坂の役で勝利を納め、駿府へ凱旋(がいせん)する途中に同神社に戦勝報告を行い、愛馬を奉納したと由来される。
 徳川家康にゆかりのある駿河、遠江、三河では、武士はむろんのこと百姓や町人も弓を持つことが許されていたという。ちなみに家康は鷹狩りを心身鍛錬や戦を想定し日常的に行っていた。家康は、海道一の弓取りともいわれた。
 精神修養として、高校などの弓道部では洋弓が主流であるが、和弓も残る。京都の三十三間堂では今も伝統行事として、新年に「通し矢」が行われている。各地に残る流鏑馬も弓道を今に伝えるものである。
 オリンピック種目に和弓はないが、アーチェリーでぜひこの由緒ある地からメダリストが出てほしいものだ。

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