世界へ挑んだ技術者たち

 かつてNHKの人気番組のひとつに『プロジェクトX 挑戦者たち』があった。キーワードは窓際、逆転、復活で、そこには技術者たちの魂がある。テーマソングの「地上の星」を中島みゆきが熱唱し人気があった。この番組に浜松高等工業、静岡大学工学部OBが多数出演している。タイトルと登場者を以下にあげる(肩書きは出演当時のもの。順不同)。
 『執念のテレビ 技術者魂三〇年の戦い』。テレビ開発に携わった髙栁健次郎・春山丈夫(シャープ元生産技術センター所長)が出演している。髙栁は、Ⅳ章の偉人伝で取り上げている伝説の技術者だ。昭和15年に開催予定の東京オリンピックに向け、テレビ開発を進めていた。戦争という時代に翻弄(ほんろう)されながらも、30年という歳月を経た後に、テレビの本放送開始にこぎつけた。髙栁はかつての教え子たちばかりでなく、ライバル社の技術者たちの持てる力を最大限に発揮させた。
 『衝撃のカミオカンデ 地下一千メートルの戦い』。東大教授であった小柴はニュートリノ検出のための実験施設カミオカンデ(岐阜県飛騨市神岡町)を計画し、当時の浜松テレビに開発を依頼した。そして世界最大の光電子増倍管の開発に成功する。昭和58年にカミオカンデは完成した。このプロジェクトに関わった晝(ひる)馬(ま)輝夫(浜松ホトニクス社長)、鈴木賢次(浜松ホトニクス)が登場している。晝馬はノーベル賞受賞式に、小柴名誉教授とともに臨んだ。
 『窓際族が世界規格を作った』。映像を記録するビデオデッキ、日本初の世界規格VHSプロジェクトは、開発リーダーの高野鎮雄(日本ビクター元副社長)の研究開発によって実を結んだ。ビデオの開発にあたってはソニーと東芝などがベータ方式を採用し、他のメーカーはVHS方式を導入した。結果的に一般家庭用にはVHS方式が勝利を納め、世界の標準規格になった。高野は前出の髙栁と共に歩んだ道だ。
 『逆転 田舎工場 世界を制す』。クオーツ時計は水晶発振方式によるもので正確無比。この方式そのものはすでに開発されていたが、家具ほどの大きさであった。それを腕時計に組み込むという究極のダウンサイジングするための執念。この開発に携わったのが藤田欣司、坂本求吉、下平忠良(元諏訪精工社、セイコー)の静岡大学工学部卒トリオだ。諏訪精工社から相談を受けた静大工学部の岡部隆博教授(当時)が、この三人を送り込んだ。
 『復活の日 ロボット犬にかける』。ロボット犬・AIBO(相棒のこと)の開発取りまとめ、名付け親でもある大槻 正(元ソニー)。感情をもち、かつ学習する人工知能ロボットだ。大槻は会社の方針に反発し、いったんはソニーに辞表を提出している。トップの井深 大(まさる)の熱意を知り、再びソニーで開発に取り組んだ成果であった。
 ここからはホンダの話が続く。『制覇せよ 世界最高峰レース』。ホンダは50年代前半、経営は必ずしも順調ではなかった。オートバイで世界市場を制覇するためには、権威あるレースで優勝することが近道である。本田宗一郎の夢に挑戦した男たちは、新型四バルブを搭載したエンジンを開発した。61年、マン島TTレースでホンダ車は一位から五位までを独占し世界を驚かせた。出演は当時の専務・河島喜好(本田技研工業元社長)、プロジェクトリーダーの久米是志(本田技研工業元社長)だ。宗一郎の後を継ぎ二代目社長となったのが河島で、三代目としてバトンタッチしたのが久米である。
 『世界を驚かせた一台の車』。ホンダはマスキー法という排ガス規制の壁に挑戦し、低公害のCVCCエンジンを開発した。「子どもたちに青い空を残してやろう」が合言葉だった。当時の専務・河島喜好(本田技研工業元社長)、リーダー久米是志(本田技研工業元社長)が登場している。マン島レースを制覇した河島・久米コンビだ。
 『地上最強のマシーン F1への激闘』。オートバイレースから世界最速レースとして知られるF1への挑戦。F1エンジンを設計した新村公男(きみお)(元本田技研工業)の苦労話が語られる。新村はマン島レースで活躍したオートバイエンジンの設計者である。しかし、F1レースは、四輪というだけでなく馬力がまったく違った。過去の栄光を忘れ、零から構築し直した。新村の設計したエンジンを搭載したマシーンは、参戦二年目で早くも優勝という金字塔を打ち立てた。
 『ラストファイト 名車よ永遠なれ』。プリンス自動車は、国の自動車産業再編の指導を受けてニッサンに経営統合される。車の輸入自由化の波が襲っていたという背景があったからだ。吸収合併が決まり最後となるレース・日本グランプリで、スカイラインGTは強豪のポルシェなどを破り優勝する。同社にとって、最後の名車スカイラインのエンジンを開発したのが榊原雄二(元プリンス自動車工業)。同車種は現在も人気シリーズとして継承されている。
 『海の革命エンジン 嵐の出漁』。安川 力(つとむ)(元ヤマハ発動機)は、耐久性に優れた漁船の船外機を開発しヤマハブランドを確立した。安川はかつてトヨタ2000GTのエンジンを手掛けた実績をもつ技術者でもある。しかし、陸上と海上では、条件がまったく違った。試行錯誤を繰り返しながら、ついにその確かな技術が船外機にも生かされた。また、手漕ぎ舟を使っていたアフリカや東南アジアの漁民にこれを売ることは大変であった。
 『世界最大の船 火花散る戦い』。世界最大のタンカーを日本で造ろうと、プロジェクトチームが結成された。それまでは外国の石油メジャーに牛耳(ぎゅうじ)られていた。出光興産は石川島播磨重工業に世界一のタンカー造りを請け負わせた。全国から技術者が集まり、南崎邦夫(元石川島播磨(はりま)重工業)は、プロジェクトの現場監督を任され、出光(いでみつ)丸を進水させた。造船・ニッポンの威信をかけた闘いであった。南崎はかつて現場で事故にあい右足を切断し、義足をつけていた。それでも毎日現場を歩き続け指揮した。
 『激闘 男たちのH―Ⅱロケット』。純国産のH―Ⅱロケットの開発にあたり、姿勢制御という重要課題の開発に携わったのが小島雅夫(元日本航空電子)だ。糸川英夫のペンシルロケットの打ち上げから、やっと日本のロケットは国際水準に肩を並べるまでになった。
これらの番組は、日本の技術力がいかに優れているかを再認識させてくれる。そして浜松にゆかりの人間が、これらの偉業を達成していることを浜松の人間として誇りに思う。


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