2012年03月27日 04:56
武田の家臣団を召し抱える
家康は武田信玄を武将として畏怖(いふ)していた。同時に尊敬もしていたようだ。今川家の人質時代に、武田の強さを見聞していたであろう。信玄の戦略を手に入れるために、信玄の死後、井伊直政に140人もの武田の家臣を召し抱えさせた。井伊家の専売特許である赤備え(武...
浜松の雑学といった趣で、H24年4月に自費出版しました。書店の店頭に並びますが、この本の内容を週刊として1話ずつ公開します。
2012年03月27日 04:56
家康は武田信玄を武将として畏怖(いふ)していた。同時に尊敬もしていたようだ。今川家の人質時代に、武田の強さを見聞していたであろう。信玄の戦略を手に入れるために、信玄の死後、井伊直政に140人もの武田の家臣を召し抱えさせた。井伊家の専売特許である赤備え(武...
2012年03月19日 04:38
家康のおしかみ像が名古屋の徳川美術館に所蔵されている。小さな巻物になっており、家康は慢心が起こらないよう生涯座右に置いたという。 しかみとは顔をしかめることで、生死をさまよった三方ヶ原の戦で城に逃げ帰った後、絵師に命じて描かせたものと伝えられる。頬が...
2012年03月12日 05:04
元亀3年(1572)、武田軍が遠州・三方原台地を往く。信玄は浜松城を横目で見ながら、「家康ごとき若造など問題ではない。先を急ごう」と思ったことであろう。この時、信玄52歳、家康31歳。信玄が先を急いだのには、二俣城攻撃に二か月と予想外の時間を要したことがあっ...