検番とステッキガール

第三項 浜松のエンターテイメント
 都市の魅力にはいろいろあるが、娯楽性も重要な要素である。ここではお座敷遊び、ステッキガールといわれた女性との遊び、オートレース・競艇の公営ギャンブルについてふれる。

 浜松中央検番松涛(まつなみ)会は今も健在だ。検番とは、料理屋、芸者屋、待合茶屋の営業事務所というところである。かつてお座敷遊びは、夜の接待には欠かせないものであった。現在でいえば、高級クラブで接待するようなものであろう。
 芸者は伝統芸能の唄と踊りを披露し、宴席を盛り上げてくれる。松濤会の踊りは藤間流といって、五大流派のひとつ。日々鍛錬であり、定期的に師匠のところへ通っているという。 ひと世代前の紳士のたしなみのひとつに、座敷で小唄や都都逸(どどいつ)のひとつも歌えることがあったようだ。
 歌手の谷村新司は素晴らしい歌唱力をもつが、小さい時から親に連れられて芸妓の芸を見ていたという。本田宗一郎は仕事もすごいが、こうした遊びも半端でなかったようだ。自伝によると、芸者を二階から投げ捨てたというエピソードがある。いずれにしろ、夜のお座敷は浜松の夜を盛り上げ、明日への活力の源であったことであろう。
 一人前の芸妓になる前は、関西で舞妓、関東では半玉(はんぎょく)と呼ばれる。師匠から芸事だけでなく、人間としての教えを叩き込まれる。そして、客の側にもそれなりのモラルが必要である。京都では、「一見さん」はお断りである。
 さて、浜松の夜の盛り場は、千歳町界隈である。かつては元浜町もにぎわった。そのため北部検番が組織され、置屋には200人を超す芸妓がいたという。さらに相生町を中心に歓楽街が形成され、東部検番もあった。時代の変遷で、現在は中央検番が残るだけとなった。最盛期には、浜松まつりで木遣り道中などでその華を披露した。なお、天竜区二俣にも花柳界があり、100人を超す芸妓がいたこともあったという。
 松涛会のお姐(ねえ)さんたちも、年を召した人が多くなってきたので、その将来が心配ではある。コンベンションビューローの仕事で、「松涛会の芸を愛でる夕べ」を主催者として開催したことがある。こうした芸は、後世に伝えていかなければならないものである。熱海では芸者大学なるイベントで、外国人観光客などにも人気がある。伊東温泉ではお座敷文化大学があり、若い女性に行儀作法なども教えてくれるという。
話を戻そう。気になるお値段はひと席、ひとり一万七千円だという。もちろん三味線、唄、踊りと役割があるので四、五人は呼ぶことになる。その芸と話題では、今時のコンパニオンとの比較にもならない。
 次には、ステッキガールである。浜松はその存在で有名であったようだ。酌婦であり、コンパニオンであったろう。タレントの小澤昭一は、こういう世界に極めて詳しい人で「赤線が廃止される前年から始まる」としている。売春防止法が施行されたのが、昭和33年4月1日。蛇足ながら筆者が小学校に入学した年である。それまでは公認の遊郭があった。その道の先達から武勇伝を聞かされたこともしばしばある。
 遊郭が旅館になり、娼婦を置けないので業者から女性を派遣してもらうというシステムとなった。元々は、女性を同伴しコーヒーを飲んだり、食事をした。ステッキ替わりであったから、この名がある。浜松での登録業者は80軒くらいあって、350人くらいの女性がいたという。中には、バスガイド、デパートガールなどのアルバイト女性もいたようだ。
 いずれにしても夜が楽しいというのは、国際観光コンベンション都市にとって必須条件のひとつだ。名前は伏せるが、浜松で参加者が一万人を超すという大きなコンベンションがあった。夜、参加者の一部はナイトライフを楽しむために、名古屋まで足を伸ばしたという。残念であるし、もったいない。


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