名門・名家の系譜

 名門といわれる「家」がある。代々、庄屋などを務め、藩主から独礼庄屋として厚遇された家もあった。武士階級ではないのに、彼らは苗字(みょうじ)帯刀を許されていた。
 その地域の人たちと苦楽を共にしたことであろう。文化人であり、祭祀(さいし)を司る家もあった。村落共同体の中で精神的な拠(よ)り所であった。そうした名門の血筋は継承されてきた。
《中村家》西区雄踏(ゆうとう)町
 中村家の起こりは、源 範頼(のりより)(頼朝の弟、義経の兄にあたる)の庶子が、大和国の中村郷に住んでいたことによる。中村家は戦国期に今川家に仕えていた。代官、そして今切運船奉行として浜名湖の舟運を取り仕切っていた。徳川家康は遠州を攻略する際に、中村家に協力を求めている。
 家康の二男・於(お)義(ぎ)丸(後の結城秀康)は、この中村家で生まれている。家康の正室・築山御前の側女中・於万(おまん)の方が、家康の子を宿したことに御前は激怒。母子を保護するため、家臣が於万の方を中村家に預けたといわれる。長男の信康が自刃したので、本来なら二男の秀康が家康の跡目として第二代将軍になるのが筋であった。屋敷内に於義丸の出産時の胞衣(えな)(胎盤など)を埋めた塚が現存する。
 当家第二八代当主の貞則は、勤皇思想により遠州報国隊結成の主要メンバーでもあった。
 中村家住宅は国指定の有形文化財(建造物)として公開されている。
《鈴木家》東区中郡(なかごおり)町
 鈴木家は古くからの独礼庄屋である。このほかに高林家(有玉南町)、山下家(笠井町)、岡部家(東伊場)が、この地方の古独礼庄屋といわれた。この四家のうち鈴木家は最も格式が高いとされていた。家康は鈴木家に万斛(まんごく)組といわれる組織を編成させ、代官としての役割を担わせた。
 家康は側室・阿茶(あちゃ)の局(つぼね)を鈴木家に住まわせていたので、鷹狩りの際にしばしば立ち寄った。局は大坂冬の陣における豊臣との和睦交渉も行うほどの才智があり、駿府での家康の最期を看取(みと)ったのも阿茶の局だ。武田の家臣の出自であり、家康が最も寵愛(ちょうあい)した女性である。
 鈴木家の住宅は広大な敷地の中にあり、母屋のほか屋敷門や米蔵、弓道場などがあった。
《竹村家》西区入野町
 竹村家は、代々酒造なども行ってきた豪農である。
 第八代当主の又右衛門尚政(なおまさ)は俳人として知られ、息子の又右衛門尚規(なおのり)は国学者の本居宣長に師事し、細田村(西区協和町)の石塚竜麿(たつまろ)に歌道を学んだ。国学の高林方朗(みちあきら)とも親交があったという。まさに、この地域の文化的リーダーであったといえよう。江戸時代中後期に、伊能忠敬(ただたか)が佐鳴湖を測量した際には、竹村家に投宿している。
入野地区には竹村姓が多く、本家は「本竹様」と呼ばれた。入野町の帰帆橋という交差点のところに公園がつくられている。ここが竹村家にゆかりの場所だ。
《竹山家》東区天王(てんのう)町
 竹山家は、戦国時代以来の旧家であり、徳川家康名も訪ねてきたほどの名門である。
 元来、鷹森姓であったが、屋敷内に竹藪があったことから徳川家康が竹山姓を与えたという。かつて家康お手植えの梅の木・鷹宿(おうしゅく)梅(ばい)があった。
 幕末から明治にかけての当主・竹山梅七郎は教育にも熱心で、自宅に吾憂(ごゆう)社という教場を開いた。息子の謙三は啓蒙社という学塾で教壇に立ち、福沢諭吉の教えを伝授した。
『ビルマの竪琴』著者の竹山道雄、銀行頭取を務めた竹山謙三、さらに一族からは静岡県知事の竹山祐太郎など有能な人材を輩出した。謙三は遠州報国隊にも参加している。
 第一五代当主の竹山恭次著『平左衛門家始末』は、幕末から昭和期にかけての遠州の変遷を知る上での好著だ。
《田代家》天竜区二俣町
 天竜川の筏(いかだ)問屋として、また名主として田代家は代々重要な地位を占めていた。家康の遠州経営に協力したことにより、朱印状をもらっている。当主は代々嘉平治を襲名(しゅうめい)し、第一〇代、一一代当主は続けて二俣町長に就任している。
 明治以後も、田代家は天竜川の水運に重要な役割を果たした。材木だけでなく、久根鉱山や峰之沢鉱山から採掘される銅、王子製紙の紙製品などの水運により栄えた。
 母屋は幕末から明治初期に建てられたもので、老朽化しているが天竜川沿いに現存する。
 冠木(かぶき)門(屋根の替わりに横木を渡したもの)があり、番所としての威厳を感じさせる。明治期に田代家から次女が前述の竹山家へ嫁ぎ、三女が偉人伝で取り上げた建築家の中村與資平の妻となっている。
《御室家》天竜区佐久間町
 御室(みむろ)家は、先祖が後醍醐天皇の民部(みんぶ)卿(きょう)(長官)として仕官していた。南北朝期には宗良(むねなが)親王の警護を務め、北朝の足利軍と戦うため船で出陣した。嵐で船が難破して遠江国白羽湊に漂着した。御室氏は流転を経て、この地に土着した。
 大坂の役にも出陣し、家康から褒美をもらったという武家であった。藤原家の血筋であり、
代々名主を務めてきた由緒ある家柄だ。現在も御室屋敷が天竜区佐久間町に保存されており、長屋門は浜松市の指定有形文化財となっている。
 現当主は御室健一郎で、二〇代目にあたる。浜松信用金庫理事長、そして浜松商工会議所会頭の要職を務める。
 ここにあげた名門・名家では、江戸時代以前から大きな屋敷を構え、広大な田畑や山林なども所有する大地主であった。作男(さくおとこ)や使用人も多くいたことであろう。
 明治政府は全国共通の貨幣を普及させた。それまで農民は租税として年貢米を納めていたのが、金納となった。そのため、農民たちは庄屋などに田畑を買ってもらい、税金を納めた。そのため、農民の多くは小作人になった。
 第二次大戦後の農地解放は、大地主にとっては晴天の霹靂(へきれき)であったろう。所有する土地のほとんどを手放さなくてはならない事態を招来した。そして、小作人であった農民は自作農に戻ることができた。大地主にとっては理不尽なことであった。


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