暴れ天竜の成り立ち

 太古の時代の天竜川は現在の天竜区二俣が河口であり、磐田原台地と三方原台地の間は岩田(磐田)の海であった時代がある。逆に、氷河期には現在よりも100㍍以上も海面が低かったというから、海岸線はずっと南にあったことを意味する。
 急流が下流域に石や砂を運び、長い年月を経て州(す)を形成していく。土地の隆起もあったであろう。天竜川沿いには、かつて州や島であったことをうかがわせる地名がたくさん残っている。南区の五島地区は、福島町、江之島町、松島町などすべて島がついている。北島町、中島町、寺島町、河輪町などもこれと同じだ。
 現在、天竜川の流れは一定しているが、その時代によって本流は大きく変化している。現在の馬込川が本流であったこともある。馬込川沿いの船越という地名はその名残である、渡船を業とする人たちが住んでいたことを示す。
 時代によって、天竜川の名称は変わっている。奈良時代には麁玉(あらたま)川と呼ばれ、この地名は現在の浜北区に残る。平安時代の初期には広瀬川、後期には天中(てんちゅう)川と呼ばれていたことが古文書に記されている。別の文書には大天竜、小天竜との記述もある。この場合は、小天竜が現在の馬込川に相当する。天竜川は現在も数多くの河川水系を形成している。
 暴れ天竜といわれるように、大雨となるごとに天竜川は洪水を引き起こし、流域の村々に水害をもたらした。先人たちは堤防を築き自然の脅威(きょうい)と戦ってきた。浜北区の彦助堤は江戸末期の天保年間に築かれたものである。
 笠井地区や中ノ町地区の一部は、かつて豊田郡に属していたことがある。池田荘という荘園があり、この時代の川筋はもっと磐田原台地寄りを流れていた。そこに池田の渡しがあった。明治期には、池田橋や豊田橋などの賃取橋が架けられた。が、やはり洪水により流失する。
 現在はダムができているので、船明(ふなぎら)ダムより下流はそれほどの水量ではない。しかし、かつては中型の船が航行できるほどの水量があった。また、水量が減ったばかりでなく川底も低くなった。中田島砂丘は日本三大砂丘のひとつに数えられてきたが、海岸はどんどん浸食され、場所によっては200㍍近くも海岸線が後退している。
 東区の長上地区に石田という地名がある。洪水の度に天竜川が決壊し、泥流により田が冠水し小石が運び込まれたことによる。天竜川では明治以降に砂利採取が行われてきた。陸掘(おかぼ)りといって、田んぼを50㌢ほど掘ると砂利の層が現れる。これらはザル田と呼ばれ、保水力がない。業者に砂利を採取してもらうことは田んぼの改良につながる。
 天竜川下流沿いの土壌は、天竜川から運ばれた砂で形成されているので砂質である。特産のタマネギやエシャレットは砂地によく育つ。また、遠州平野は上流から土が運ばれ肥沃な大地を形成した。かつて遠州三品と呼ばれた生姜(しょうが)、糸瓜(へちま)、落花生も天竜川の恵みであった。


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