武田の家臣団を召し抱える

 家康は武田信玄を武将として畏怖(いふ)していた。同時に尊敬もしていたようだ。今川家の人質時代に、武田の強さを見聞していたであろう。信玄の戦略を手に入れるために、信玄の死後、井伊直政に140人もの武田の家臣を召し抱えさせた。井伊家の専売特許である赤備え(武具を朱塗りにしたもの)は、信玄の家臣・山県昌景が用いたものであり、そっくり武田から引き継いだ。
 信玄の跡目である勝頼は、長篠の合戦で織田・徳川軍に敗退する。その後も、武田と織田・徳川の争いは一進一退を繰り返すが、連合軍の前に武田軍はかつての栄光を失墜していく。家臣の人心も勝頼から離れていく。家康が武田の家臣団を召し抱えるのには、こうした背景があった。また、甲斐の国を治めるのに、領民の反発も抑えることができた。
 鍛冶師や鋳物師は、より優れた武器や武具を作らせるために重要であった。家康は甲斐に侵攻した際に、鍛冶師の村石九郎右衛とその一団を連れてきて浜松の地に住まわせた。現在の鍛冶町は鍛冶職人が仕事をした場所であり、職人たちが信望した金山神社が中区栄町にある。
 武田の家臣団は家族も呼び寄せたであろうし、技術者集団や職人集団も浜松の地へ移住することになった。家康は、当時日本一強いと恐れられた武田軍の戦術や技術を手に入れた。
 仇敵であった武田の家臣を呼び寄せたのには、もうひとつ理由がある。徳川の戦略、戦術のすべてを変えざるを得ない状況ができた。つまり、家臣の石川数正の出奔(しゅっぽん)という現実に直面したからだ。数正は家康の使者として数度、秀吉と対面している。数正は家康の駿府における人質時代にも近侍として仕えているから、家康のすべてを知り尽くしているといってよい。軍事機密も含めてということになる。これは敵に手の内を見せるようなものだ。武田流に変更せざるを得なかった最大の理由であろう。
 数正が出奔した背景は特定できない。家康の命によるスパイ説もある。数正が秀吉のカリスマ性に惚(ほ)れ込んだとも考えられる。秀吉は人を虜にする天才的な術をもっているからだ。小牧・長久手合戦(天正12年、1584)の後のことであり、数正は秀吉、家康いずれが天下人になるのかという秤に掛けたかもしれない。


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