遠州報国隊 討幕へ動く

    第四項 江戸幕府瓦解と浜松
 佐幕か勤皇かをめぐって、幕末は社会そのものが激しく揺れ動く。長州あるいは薩摩は倒幕に走った。幕府が瓦解しようとするその時、浜松の地でも神主などを中心とする勤皇思想の高まりにより倒幕に加担することになる。

 最後の将軍となった徳川慶喜は、鳥羽・伏見の戦いで破れ江戸へ逃げ帰る。ほどなくして錦の御旗を新政府軍が掲げ、東征の途につく。勝てば官軍、負ければ賊軍、これは歴史の法則である。この大総督は有栖川宮熾仁(たるひと)親王殿下であり、江戸城にはかつての許嫁(いいなずけ)の和宮(家茂の正室)がいた。
 杉浦国頭(くにあきら)などこの地の神主たちは、勇躍、東征軍に参画する。資金援助をする者あり、銃剣を手に従軍する者あり。遠州報国隊に参加した人数は、最終的に300人を超えた。そのうち江戸まで従軍した者は90人であったと記録されている。なお、遠州報国隊の呼び掛けに応じ、駿州赤心隊も結成され行動を共にした。
 この動きの中心メンバーであった大久保春野(初太郎)、桑原真清らは東征軍の先遣隊に請願書を提出した。金品などの献納もしくは供奉(行列への供)をしたいというものだ。総督参謀の海江田からの返答は、別に一隊をつくればどうかというものであった。
 慶応四年(1868)の二月下旬には、先鋒隊、そして大総督宮隊を警護するために新居、舞坂、さらに天竜川を守備した。駿府に入られた宮様から晴れて従軍許可が出た。
 江戸に着くと、遠州報国隊に金品が下賜された。261両と記録されている。さらに、遠州報国隊と駿州赤心隊から精鋭が選抜され、大砲隊を編成した。上野山に籠る彰義隊と銃火を交え、追討した。七月末には、江戸の町は官軍が完全制圧した。大総督からメンバー一人ひとりに5両が配られ、酒肴を供された。
 江戸の平定を受け、有栖川宮が帰京されることになった。10月19日、遠州報国隊は再び供奉を仰せ付けられる。
 11月15日、有栖川宮隊は浜松宿に到着する。遠州報国隊は、宮様そして藩主からその労苦を金品や酒肴で労われた。翌日、有栖川宮隊を舞坂宿に送り、遠州報国隊の任務は終わった。大きな仕事をやり遂げ、隊員一同感涙にむせびながら郷里に帰ったという。
 戊辰の役の戦死者を弔うために、新政府は招魂社で慰霊祭を行った。この時、祭主という大役を務めたのが大久保春野である。
 その後、遠州報国隊に限らず倒幕運動に加担した連中、特に神主たちは旧幕臣から命を狙われることが少なくなかった。そのため新政府は、東京の靖国神社の前身である招魂社の神主として彼らを奉職させた。その数は三〇数人にも及んだ。 
 遠州報国隊は神主が中心となり結成された。彼らの多くは国学の教養を持ち合わせていたばかりでなく、弓術などの鍛錬も行っていた。幕末に米国船が日本沿岸に出現すると、海防のため時の藩主は神主隊を組織させているから、その萌芽があったともいえる。


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