コラム 中島飛行機が進出

 大正6年(1917)、元海軍機関将校であった中島知久平(ちくへい)は飛行機研究所を開設した。これが中島飛行機製作所となり、太平洋戦争の終戦時まで世界有数の航空機メーカーであった。一式戦闘機・隼(はやぶさ)が陸軍に採用されるなど業績を伸ばし、全国に工場を展開していった。
 戦時中の昭和17年、中島飛行機が浜松の大蒲(おおかば)(東区大蒲町)に進出することになり、浜松製作所宮竹工場の建設に取り掛かった。地元にとっては寝耳に水といったところであったろうが、軍の命令は絶対である。
 なぜ浜松へ工場を計画したのであろうか。すでに浜松には、高射砲連隊が置かれるなど軍都であった。
 そして、工業都市であった浜松の主要工場は軍需産業に転用されていた。かの楽器メーカーのヤマハも木工技術が評価され飛行機のプロペラなどを生産していた。技術の集積都市でもあり、東海道線により輸送が便利であったことも要因のひとつであろう。
 中島飛行機は戦後解散し、技術者たちは平和産業である自動車関連業界などに転進していった。浜松のものづくりを語る時、中島飛行機が進出したことも記憶に止めるべきである。
 ちなみに中島飛行機は現在の富士重工業で、スバルのブランドで四輪車を生産している。本社を群馬県の太田市に置く。


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