えー、拙著「浜松おもしろのおと」が本年度の静岡県自費出版大賞奨励賞を受賞しましたので、謹んでお知らせします。詳細については、今朝の朝刊(8月24日、静岡新聞)に大きく報道されていますのでご覧ください。
大正8年(1919)のこと、フランスから四七人にものぼる飛行技術団が浜松にやってきた。出迎えたのは当時の竹山市長を先頭に、児童や学生たちはフランス国旗をかざし国歌のラ・マルセイエーズを歌い歓迎した。
技術団の目的は飛行機の操縦はもちろんのこと、偵察、戦闘射撃など実践的内容を指導することであった。爆撃の技術指導は三方原で行われた。この期間には、訓練の模様を視察するために、皇族や東郷平八郎大将なども浜松へ来られたという。
別項でふれるように国産第一号の旅客機が製作されたのは、この浜松である。福長浅雄が設立した福長飛行機製作所が、6人乗りの旅客機を開発しテスト飛行に成功している。大正11年のことである。同機は複葉機で、エンジンはイタリア製であったが、それ以外は福長たちがすべて手づくりで行った。
さて、話は少しさかのぼる。大正6年5月のこと、アメリカ人が曲芸飛行を浜松の飛行場で興業することになった。これを知った本田宗一郎少年は、片道20㌔の距離を自転車を漕ぎこれを見に行った。所持金が足りないので入場料を払えず、大きな木の上に登って見たという。この日から少年の夢は空を飛ぶことになった。
この夢をホンダの後輩たちは追求し続け、小型ビジネスジェット機HondaJetの初飛行に成功している。宗一郎の亡き後、平成15年のことだ。ホンダ・エアクラフト・カンパニーをアメリカに設立しており、受注も好調であるというからその雄姿を目にする日も近い。宗一郎も天国で満面の笑みを浮かべているのではないだろうか。
市内の舘山寺麓の内浦から伊勢まで、水上飛行艇が飛んでいたことがある。空路で伊勢参りができた。戦前の一時期のことであり、昭和7年当時の料金が5円であった。写真を見ると、複葉機で二人乗り。軍からの払い下げであったようで、地元の資産家が購入した。参宮の文字、東海空路研究所と機体に書かれている。今考えてみても壮大なプロジェクトであったものだ。
航空自衛隊浜松基地内には、平成11年にエアパーク(航空自衛隊 浜松広報館)が開設された。実物の戦闘機やミサイルなどの展示やシアター、資料コーナーがあり、航空ファンのみならず人気の観光スポットになっている。喫茶コーナーからは、離発着するエイワックス(早期警戒管制機)や戦闘機を目にすることができる。また。毎年10月に行われるエア・フェスタには、県内外から多数の来場者がある。
このように浜松はオートバイや自動車ばかりでなく、飛行機とも縁が深いことがお分かりいただけよう。
はじめまして
記事を興味深く拝見させて頂きました。
内浦での水上機の具体的な運用については貴ブログが唯一のネット情報でした。
趣味で各地の飛行場を記事にまとめているのですが、リンクと内容の引用許可を頂けないでしょうか?
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