第6章 浜松の教育と文化
第1項 特色ある学校
読み・書き・算盤(そろばん)といわれるように、江戸時代には寺子屋があり、庶民の子弟などが通った。武士の子は藩校に通い漢文などを学び、武術の修練もした。そうした意味では、日本の教育は西欧などと比べても遜色(そんしょく)のないものであった。この項では、浜松で特色のある教育や学校についてふれる。
江戸時代には、各藩に藩校があり家臣の子弟が学問や武術を学んでいた。浜松藩には、幕末期に克明(こくめい)館があった。このほか教育機関として郷(ごう)学校、私塾、さらに村々には寺子屋があった。
慶応元年というから明治維新まであと4年という時期、長上郡下堀(しもぼり)村(東区天王町)に吾憂(ごゆう)社という名の学塾ができた。近隣の有志が設立したもので、儒者の寺西易堂(えきどう)が国書や詩文の講義をした。教場は竹山家の屋敷を用いた。当時の当主は竹山梅七郎である。
この吾憂社の後に、今度は四教(しきょう)館という学塾ができた。人数が多くなったのであろうか、安福寺(現在は廃寺)という寺が教場となった。講師は片岡伴六郎という人で、経書(けいしょ)、詩文、習字を教えたとされる。
さらに明治5年(1872)には、模様替えし啓蒙社として開校した。対象は8八歳から18歳くらいとしており、上級のクラスでは『十八史略』などの漢籍に加え、『西洋事情』『経済原論』なども教えられた。竹山梅七郎の長子・竹山謙三は一時期、慶応義塾に学んだことがある。謙三はわずかな期間であるが啓蒙社で助教を務めている。慶応義塾での授業を踏まえ、『学問のすゝめ』など福沢諭吉の講義内容を一地方の小さな村で聴講できたということは驚きだ。
明治5年は、新政府により学制が頒布された年である。とはいっても、校舎の建設費は地元負担であり、学校へ通うことを奨励したものの、農村部ではその必要性が必ずしも認められなかった。就学率は低く、特に女子においてその傾向が顕著であった。
その後、啓蒙社は学制頒布により下堀学校となる。現在の与進小学校の前身だ。ここでも竹山梅七郎は自ら浄財を寄付したり、資金集めに奔走(ほんそう)している。
浜松歴史川柳です。
http://murakitatsuo1969.hamazo.tv/e3466617.html
ぜひごらんください
前の記事
次の記事
写真一覧をみる