明治期の初め、政府は明治5年(1872)に国立銀行条例を施行した。これにより全国に国立銀行が設立された。東京に第一銀行が設立され、横浜に第二銀行、大阪に第三銀行といった具合で、明治一二年に京都に第百五十三銀行が設立されていった。
浜松地域では明治9年に第二十八国立銀行が設立された。設立発起人には気賀 林、気賀半十郎、横田 保など地元資産家四人と井上延陵(えんりょう)、小林年保の士族出身者二人の六人が名を連ねた。
井上が頭取となった。出資者は300人を越えたが、そのうち約八割は士族であった。旧幕臣は明治維新により俸禄を失う。退職金に相当する公債をもらっており、それを出資した。
井上は頭取として、三年あまり指揮を執った。しかし、明治22年に静岡の第三十五銀行と合併し同行の浜松支店となった。
国立というものの、厳密な意味での国立ではない。貨幣も発行できたが、あくまでローカルの域を出ない。明治23年には新たに銀行条例
が公布され、一定の資本金額を定めて認可を受ければ開業できることになった。
これにより小さな村にまで銀行が設立されることになった。遠州地域は報徳思想の信望者が多く、貯蓄に対して積極的なこともあり設立ラ
ッシュとなった。明治34年の調査によると、全国で銀行数の多い県は兵庫県が最も多く、次に静岡県であった。静岡県内には154行あり、このうち三分の二が遠州地方にあった。
笠井は浜松が町制施行されてから間もなく、笠井町となるほど活況を呈していた。笠井の市が隆盛であり、笠井商業、笠井銀行があった。
また、今の天竜区二俣には第百三十八国立銀行があった。二俣は鉱石、紙製品や木材などの集散地であり、経済の中心地であったことが分かる。