遠州灘に面した米津の浜(南区)に台場跡が残されている。現在は一基であるが、建設当初は三基あった。
台場が築かれたのは安政三年(1856)のことであった。この10年前に、アメリカの東印度艦隊司令長官ビッドル率いる軍艦二隻が遠州灘沖を航海している。幕府は海防の必要から諸藩に台場の構築を指令した。
台場の前面は石を積み上げてあり、後方は円形となっていた。その上部に大砲を据え付けた。それぞれの高さは15間(約27㍍)、周囲は40間(72㍍)あったというからちょっとした要塞である。
浜松藩は当初、軍役として人足を徴発したが作業が捗(はかど)らない。そこで扶持(手当て)を一日につき一朱に増額した。たいそうな収入になり、人足として労働力を提供する人が増えたという。
砲身は2間(3・6㍍)の長さがあった。砲弾は花崗岩でつくったものや、鉄製のものもあったという。藩主も立会い発射実験もしたが、大きな爆発音を出すばかりであった。波打ち際まで届かなかったというものもあったというから、黒船を攻撃するどころではない。
花崗岩でつくられた砲弾のひとつは、南区の新津小学校に保管されている。全国各地の沿岸部にこのような台場がつくられた。東京台場の大砲の威力はどうであったろうか。