東海道宿駅を整備

   第三項 天下人になる
 関ヶ原の戦いに勝利し、家康は名実共に天下人となった。秀忠に第二代将軍職を譲った時には、すでに齢(64歳。駿府城(静岡)を修築し、江戸の将軍との二元政治体制を執る。駿府大御所時代といわれ、ある意味では将軍以上の影響力を及ぼした。さらに大坂の役によって豊臣家を滅ぼし、後顧(の憂いがなくなった。
 
 
 家康は東海道の宿駅を整備した。江戸と京を結ぶ、いわゆる東海道五十三次である。同時に関所を設けて通行を監視した。東海道には二つの関所があった。箱根、そして新居。浜松は、江戸幕府を守るための交通の要衝であった。特に新居の関所は取り調べが厳しく、入り鉄砲に出女を警戒した。各地の大名の正室を江戸屋敷に住まわせている。出女とは、その人質がいなくなることであり、特に外様大名に謀反を起こしやすくする。
 江戸から29番目の浜松宿には本陣(大名の宿泊場所。庶民は旅籠や木賃宿を利用)が6軒あり、箱根とともに全国の街道の中でも最大であった。それだけ人、もの、情報の往来が頻繁であった。また天竜川や浜名湖は大雨や高潮の時には浜松宿あるいは新居の宿であれ、滞留を余儀なくされることもあった。大井川の川止めもしかり。軍事上、大軍を一度に渡河させないために橋を架けさせなかったのである。 
 伝馬制度なども再整備された。伝馬とは、宿駅から次の宿駅まで公用の書状や荷物を運ぶための人足や馬を用意するもの。馬は当初36疋(匹)と定められていたが、通行量が増えるに連れて、後には百疋を用意するようになった。伝馬町の地名はその名残である。将軍の上洛や朝鮮通信使などの通行の際には特別な対応が必要であり、助郷(すけごう)といわれ近隣の村々で馬の手配や糧食などの用意もさせられた。
 また、天竜川に舟橋を架けるよう命令が下ることもあり、村人たちにとって大きな負担であった。一面、年貢が免除されたり一般の旅人の宿泊の手配や荷物を運んで収入を得ることもできた。
 道程を知らせるために一里塚が設けられた。一里は約4㌔であり、一時間の歩行に相当する。暑さ寒さから旅人を守るために松なども植えられた。市内では、西区の舞阪町地内に往時を偲ばせる松並木が残されている。宿場と宿場の間には立場(たてば)茶屋などもあった。
 東海道の整備は、江戸幕府の中央集権の確立に重要な役割を果たした。


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