第三項 成熟期―世界市場へ
浜松の企業はその販路を商社に頼るのではなく、独自のチャンネルで製品を世界市場に売り込んだ。これは、浜松商法といわれるもののひとつだ。よいものは必ず売れるという信念があったのである。
光技術で世界市場を凌駕(りょうが)する浜松ホトニクス㈱は、その前身を東海電子研究所といい、戦後間もない昭和23年に創業した。ベンチャー企業の草分けとなった、現在のソニーの創業とほぼ同じ時期だ。後に浜松テレビ㈱と改称した。
北極のオーロラを撮影するカメラの開発を東京大学の金田理学博士が、当時の浜松テレビに持ち込んだ。この撮像管の開発に、同社のプロジェクトチームが立ち上がった。紆余(うよ)曲折があったが、5年後の昭和53年に完成した。東大宇宙航空研究所の衛星きょっこうに搭載されたカメラは、オーロラの全体像をくっきりと映し出し宇宙の旅から帰還した。
さらにハーレー彗星(すいせい)探査機すいせいに、同社が開発した真空紫外撮像装置が搭載された。これは宇宙の神秘を解明するのに役立った。こうした光を制御し画像撮影する技術は、世界でもホトニクスの独壇場(どくだんじょう)だ。
浜松ホトニクスはその後も成長・発展を遂げ、光電子増倍管(光センサー)など光技術の分野で先進技術を誇る世界企業だ。東大の小柴教授(当時)はカミオカンデでのニュートリノの観測により、平成14年にノーベル物理学賞を受賞した。その技術を支援したのはホトニクスだ。
創業者の堀内平八郎は信州の出身である。浜松高等工業学校で髙栁健次郎がテレビの研究開発をしていたことから入学した。浜松テレビの社名も恩師の髙栁=テレビということから付けたもの。テレビの製造会社や放送局と間違えられたという逸話が残っている。
平成2年、浜松ホトニクスは中央研究所(浜北区平口)を開設した。ここでは十年後、二十年後の技術への挑戦がなされている。研究開発費の比率が極めて高いことに同社のポリシーがみられる。また、光と生命というテーマを掲げる中で、PET(ポジトロン断層撮影法)検診センターを平成4年に開設している。この検査方法は従来のCT(コンピュータ断層撮影)やMRI(磁気共鳴影像法)よりもはるかに進んだ情報が得られ、ガンや認知症の早期発見が可能だ。光がもつ潜在力には限りがないという信念のもと、浜松ホトニクスの挑戦は続く。
同社が開催しているフォトンフェアには、国内ばかりか海外からも技術者、バイヤーが訪れる。ここでは若手研究者を顕彰することも行っている。
光産業創世大学院大学(西区呉松町)は、ベンチャー精神をもった若き人材を育成するために同社が開設したものであり、企業内大学院というべき存在である。ここから明日の起業家が育つことであろう。