堀留運河と源太夫堀

 堀留運河は井ノ田川堀割ともいい、現在の県居公民館(中区東伊場二丁目)の辺りから西へ進み、佐鳴湖までの約六キロの区間にあった。明治4年(1871)に、井上八郎(延陵)と田村弘蔵が中心となり計画したもので、旧幕臣に仕事を与えるという名目があった。
 船溜りの絵が残っており、この周辺は旅館や小料理屋、倉庫業などでにぎわった様子がうかがえる。これにより浜松から浜名湖経由で新所(湖西市)まで人や荷物を運ぶことができるようになり大変便利になった。
一日4往復し、五、六時間で往復できた。乗船料は大人が8銭5厘であった。収益もあげたようであるが、井上個人の利益になっているとの疑義が持ち上がり、訴訟にまでなっている。井上は浜松にあった第二十八銀行の頭取を務めていたこともある。
 井上が東京へ去ったことにより、堀留会社の経営となった。70人乗りのイギリス製の蒸気船を購入し、運行するようになった。ただし、運河の部分にまでは乗り入れができなかったようだ。
 明治14年に新しく浜名橋(新居・舞坂間)が架けられたことや、明治22年に東海道鉄道が開通したことにより水運の需要は減っていった。しかし、昭和の初めころまでは、長さ四間(約7・2㍍)ほどの帆掛け船も通っていたという。風がない時には、土手から綱で引っ張っていたという話も伝わっている。
 現在も運河の跡を辿(たど)ることができるが、排水路のようであり、かつて船が航行していたとは思えない。鉄道院工場の誘致で、一部が埋め立てられて運河としての機能が失われた。
 一方、江戸時代末期に天竜川から浜松宿までの舟運も計画された。遠州灘の海岸に沿って掘削された源(げん)太夫(だゆう)堀、そして後に掘られた新源太夫堀で、こちらもその形跡を確認することができる。源太夫堀は享保11年(1726)に完成した。田畑を潤したばかりでなく、高瀬船が往来し掛塚湊ともつながっていた。堀留運河と源太夫堀により、天竜川と浜名湖が運河でつながっていたとしたら、現代でも観光面というだけでなく大いに利用できたことであろう。
 さて、ここで船を使った旅があったことを記しておきたい。若者たちの楽しみのひとつにお伊勢参りがあった。伊勢講組織の代参といって、村の五穀豊穣や村人の安全を祈願する代表を送った。五島地区や篠原地区の若者たちは地引網船などに乗り込み、20人ほどで海路伊勢を目指した。
 東風(こち)が吹くのを待って出航する。風がよければ八時間ほどで着くことができたというからかなりの速度だ。伊勢神宮を参拝し、二、三泊くらいする。血気盛んな若者たちにとって、色町に繰り出すという別の楽しみもあった。
 そして、帰りは西風を待ち帰途につく。これらの儀式により一人前の男として認められたということだ。


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