プロ野球選手

   第三項 アスリート列伝
 野球やサッカーなどプロの世界に入り活躍したアスリートたちをここで紹介する。また、アマチュアの祭典、オリンピックに出場した選手も数多い。

プロ野球選手
 最近こそやや精彩を欠くが、かつて静岡県は野球王国といわれた。
 まずは、ジャイアンツのエース投手であったサウスポーの伊藤芳明(昭和8年生まれ)。興誠高校から中央大学を経て、ノンプロの日本生命に所属。昭和34年に巨人に入団した。背番号は21。新人でいきなり開幕投手を任された。この年、36試合に登板して防御率2.98。昭和36年には、投手の最高栄誉である沢村賞を受賞している。開幕投手に通算三回指名されるなど、エースの一角を占めた。通算成績は71勝63敗で、防御率2.87。昭和38年には19勝をあげ、うち完封勝利が10というから抜群の安定感があった。
 小池兼司(昭和14年生まれ)は、南海ホークス(福岡ソフトバンク)の内野手として活躍した。浜松商業高校から専修大学へ進学。昭和36年に南海ホークスへ入団。背番号は2、遊撃手であった。小柄で堅実な守備に定評があった。ホークスは全盛期に四度のリーグ優勝をしており、小池は昭和38年から四年連続でベスト・ナインに選出されている。昭和39年から五年連続でオールスターゲームにも出場。生涯打率は・226、守備の人であった。
 もう一人ジャイアンツの選手がいた。船田和英(昭和16年生まれ)は、浜松商業からノンプロの北洋水産を経て、昭和37年に巨人に入団。背番号は22で、セカンド、ショートを守った。巨人在籍は四年間で、西鉄、さらにヤクルトへ移籍しプレー。成績は打率・251、本塁打105本。巨人時代の昭和38、39年とオールスターのファン投票でも選出されている。
 皆川康夫(昭和22年生まれ)は、浜松日体高校出身(第一期生)。中央大学、ノンプロを経て昭和46年に当時の東映フライヤーズ(北海道日本ハムファイターズ)に入団したサウスポー投手。その年に11勝をあげ、最優秀新人賞を獲得する活躍をみせた。父親も大阪タイガースなどで活躍した選手であった。
 鈴木尚典(ひさのり)(昭和47年生まれ)は、南陽中学から強豪の横浜高校へスカウトされた。横浜大洋ホエールズ(横浜DeNAベイスターズ)に入団した外野手。平成9、10年と二年連続で首位打者に輝いた。ハマの安打製造機と呼ばれ、左打ちでシュアなバッティングが光った。
 戦前から戦後にかけてもいい選手がいた。池端忠男は、大阪タイガース(阪神)の捕手。東邦商業(現・東邦学園)にスカウトされた強肩強打の選手であった。甲子園には昭和14年夏から16年春にかけて四回連続して出場し、16年春の大会で優勝。昭和21年に大阪タイガースに入団。正捕手の土井垣 武に次ぐ捕手として、18試合に出場した。
 同じく大阪タイガースに投手として入団した松本貞一(後に木下姓)がいる。浜松一中に進学、中途で名古屋の東邦商業にスカウトされた。甲子園に四回連続出場し、優勝、準優勝各一回に貢献した。卒業後、大阪タイガースに入団し、その年に4勝4敗(完封二)、防御率は1.58であった。戦後の昭和28年、名古屋ドラゴンズ(中日)に入団。代打での打率は・378と驚異的なもので、日本一の代打男と呼ばれたという。カムバック賞ものである。
 このほかにも名選手が数多くいた。浜松商業からは、佐野真樹夫(広島、外野手)、杉田久雄(東映、投手)、榊原良行(阪神、内野手)らがいる。浜名高校からは山内和宏(南海、投手)がおり、最多勝にも輝いている。


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