俳句の町といえば四国の松山だ。松山は正岡子規を生み、いたるところに投句ポストがあるなど俳句文化の重厚さを演出している。松山が子規を筆頭に俳諧の横綱とするならば、浜松は大関といってもよいであろう。
松島十湖は江戸末期に、現在の東区豊西町に生まれた。長じて今芭蕉といわれ、全国に門弟が数多くいた。そして何よりも特筆すべきは、句を刻んだ石碑の数が全国的にみても非常に多いことだ。これは十湖の指導もあったであろう。その数は東区の笠井地区を中心に、約400を数える。
これらの俳句の特徴は、名もない庶民がありのままの生活を詠んだところにある。
例えば、農作業を終えた後で、十湖たち指導者の教えを受ける。それを石碑に残すために研鑽に励んだ。
松尾芭蕉の句を刻んだものも多い。浜松の俳諧は、芭蕉の流れを継承してきたからだ。芭蕉の高弟の服部嵐雪、大島蓼太らを経て瀬村の栩木夷白に伝わった。そして、十湖に受け継がれたものである。
一方、子規は芭蕉からの脱却を図り近代俳句の確立を目指した。子規の愛弟子に高浜虚子がいる。浜松出身の俳人として有名な原田濱人は、虚子と作風について大論争を展開し俳諧に論議を巻き起こした。浜松という一地方から、中央俳壇に向かって論戦を挑んだ濱人にある種の痛快さを覚える。
ある郷土史家に興味ある話を聞いたことがある。浜松に句碑が多い理由として、十湖の知り合いに石工(いしく)がいて、割安に石碑を提供させたというものだ。それはそれとして、俳句の里としての重みに影響を及ぼすものではないであろう。
浜松市東区では、俳句の里づくりを進めるために十湖賞俳句大会を設けている。裾野を広げるために、中学校への出前講座などの取組みにより、浜松が張出横綱になる日も近いと期待する。
藤沢周平は時代小説家の中で異彩を放ち、直木賞作家でもある。藤沢は、「海坂(うなさか)」という浜松にゆかりの俳句結社(百合山羽公らが創設)に参加していた。彼の作品に海坂藩という架空の藩が出てくるが、これは俳誌の名からとったものだ。
俳句は五七五の一七文字に宇宙をも表現する。三畳の茶室もまた、広大な空間の中にあるものだ。
浜松にゆかりの俳人については、別項で紹介しているのでお読みいただきたい。