大学受験の予備校はあまたある。しかし、受験テクニックではなく人間を育てたという意味で、浜松の齋藤塾は異彩を放っていた。
ある人が入塾のあいさつに行くと「馬鹿野郎、障子の開け方がなっていないじゃないか」と怒鳴られたという。学問の前に、しつけや作法にも厳しかった。
塾長の薫陶を受けた卒業生には、大学教授や医者など多士済々たる名前が挙がる。浜松の松下村(しょうかそん)塾といわれる所以である。
名物塾長であった齋藤謙三は、明治23年に浜松の常盤(ときわ)で生まれた。医師を目指していたが、指を切断したことにより断念した。東京で苦学をしながら学問に精進する。英語を最も得意としたようだ。
高校の英語教師などもしていたが、考え方が気に入らないとすぐに辞めてしまう。既成のものに収まらない器を持ち、それを曲げることをしなかった。
齋藤塾で教え子たちに英語だけでなく、平和、文化などについて説諭した。戦争中にも軍部を批判したので、塾周辺には特高警察が身を潜めていたという。それにも屈しなかった。吉田松陰はやはり信念を曲げなかった人で、最期は斬首(ざんしゅ)刑となった。謙三は九二歳まで、松城町の塾舎で授業を行っていた。享年九三。
『齋藤塾』という本が追悼文集編集委員会によって発行されている。装丁に世界的画家となった清川泰次の絵が使われている。彼もまた塾生のひとりであった。
もうひとつ付け加えさせていただく。かつて浜松市学生寮が東京・千駄木にあった。
東京で大学生活を送るのに、経済的負担が少なかった。寮生は100人ほどで、東大、早大、慶応などに通っていた。東大へは歩いて十数分という至近距離であった。
浜松出身者が同じ釜の飯を食べた。先輩・後輩のけじめを教えられ、連帯感もあった。優秀な人はいくらでもいたので、提出レポートなどの助言をもらえた。遊びの世界でも、麻雀の面子はすぐ揃い、アルバイト情報も共有された。何よりもいろいろな価値観を持った人や趣味人がいたのがよかった。ここから有為な青年が社会に巣立った。小生も卒寮生の末席を汚す。