明治の初期に浜松県が存在した時期があった。明治4年(1871)から九年という短い期間であった。そのため浜松県立による学校や病院があった。
明治5年の学制頒布により、子弟教育の充実が定められた。「邑(むら)(村)に不学の戸なく家に不学の人なからしめん」とうたった。このため教員の養成が急務であった。遠州地方では、明治7年に、浜松学校(浜松北高校の前身)に、小学陶成科が設けられた。翌年には、瞬養(しゅんよう)学校と改称された。名のとおり履修期間は四か月と短いものであり、試験に合格すると小学訓導の証書が与えられた。浜松県が廃止されると、静岡師範学校に統合されるなどの変遷があった。
師範学校は初等・中等学校の教員を養成するために、全国に設立された学校である。卒業後に教職に就くことを前提にしており、授業料がかからなかった。優秀でありながら、経済的理由で進学を諦めざるを得ない子弟にとってはありがたい制度であった。交通事情がよくない当時のことであり、全寮制であった。戦前の卒業生の弁によれば、応援団練習などでは上級生のしごきがあったりして、「坊ちゃん育ちには三日と耐えられない」ものであったという。
師範学校を巣立った先生がいる一方で、戦前には、教員免許をもたない代用教員がいた。したがって師範学校出身者は一目置かれていたという。当然のことながら、俸給にも差があった。
浜松師範学校は大正4年(1915)の創立で、当初は男子部のみを置いた。かつての校舎は名残町(中区布橋三丁目)にあり、現在の浜松学院大学の場所だ。
ところが静岡には静岡師範学校があり、ひとつの県に二つの師範学校があるのは全国でも少なかった。世の中が不況となり、県議会で浜松師範の廃止が提案された。昭和10年ころのことである。これに対し、浜松師範学校の卒業生はむろんのこと、浜松市議会も廃止に反対する決議を行った。市を挙げての運動になり、浜松師範学校は静岡第二師範学校として存続することとなった。
昭和14年には、特別学級として大陸科が設けられている。満州の利権を守るため、そうした人材を育成し送り出そうとしたのであろう。
第二次大戦後に学制改革が行われ、浜松師範学校は国立静岡大学教育学部の母体ともなった。昭和40年の3月まで、同学部の浜松分校として使用されていた。
以下は余談である。静岡はサッカー王国であり、静岡県出身者が日本代表の半分以上を占めたこともあった。静岡師範学校に蹴球(しゅうきゅう)部ができたのが、大正8年のことであり、サッカー王国の道のりはここから始まった。一年後には、浜松師範学校にも蹴球部が創設され、浜松にもサッカーが伝わった。師範学校で学んだ先生が、旧制中学などに赴任しサッカーを広めた。
藤枝東高校(旧・志太中学)は伝統の古豪校だが、錦織(にしごり)校長は創立当初からサッカーを校技とした。錦織は前任が浜松師範の教頭であり、浜松師範から山口秀三郎を引き抜き指導に当たらせた。数年後には、志太中は全国制覇を果たすまでになった。サッカー王国のルーツは、浜松師範であったのだ。